連載小説『かすみ荘の住人たち』

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かすみ荘の住人たち 第二十八話~ICF~

 

「どこだってリスクはありますよ。病院だって施設だってこける時はこけます。ご本人を目の前にして失礼かもしれませんが、これまで長く生きてこられた。これからの人生、心穏やかに過ごせる場所で過ごすことが最善じゃないですかね」
「ありがとうございます!」
「もちろん、今の状態と住環境をチェックさせてもらっての意見ですから。図面、見せてもらいましたよ。わかりやすかった、ありがとう」

 右斜め前に座る柿原さんが、してやったりと言わんばかりの表情を見せた。隣の師長は面白くなさそう。

「まぁ、とにかく転倒しないに越したことはない。気を付けて下さいね」

 退室間際、山中先生はそう言葉をかけて河原さんの肩にポンと手を置いた。

「まぁ、先生がああやって仰ってるから大丈夫でしょう。皆さん忙しいでしょうから、あとは早く退院の日程を調整してカンファレンスを終わりにしましょう」

 半ば強引に締められようとする退院前カンファレンス。私にはこれ以上の意見交換は不要だった。主治医から意見を聞くことができただけで十分だし、それ以外のことは柿原さんに最終確認すればいい。

「週明け、月曜日の退院でよろしいでしょうか? 午前中にお迎えに来ます」
「わかりました、それでお願いします」

 吐き捨てるような師長の一言。
 きっと、この師長は河原さんや私のことが嫌いで意地悪な態度をとっているわけじゃない。自己顕示欲が強くて、自分が輪の中心にいたいだけなんだろう。
 私はカンファレンス終了後、あえて師長に声をかけた。

「この度はいろいろとありがとうございました。経験の浅い私にはとても考えることが多くて勉強になりました。また、よろしくお願いします」
「いえいえ、また利用者さんが入院されるような時はよろしくね」

 別に私が悪いことをしたつもりはない。だけど、どちらかが歩み寄らなければ距離は縮まらない。私は気持ち穏やかに、少し大人になって精一杯の笑顔で振る舞った。

「介助バーの方がいいかもですね」

 病室に戻った河原さんの動作を確認して今井さんが言った。

「あと、手すりもあった方がいいかな、入口の所に。トイレまでは念のために四点杖があると安心かもですね」

 先日、ベッドを搬入した際に河原さんの居室の状況は今井さんの頭の中にインプット済みだ。立位時にかかる荷重と歩行時に膝折れのリスクを懸念した今井さんからのアドバイス

「よくわからんから任せるわ」

 河原さんの言葉は投げやりなものではなく、今井さんを信用して出たものだった。
 病気や障害によって身体機能が悪化することで、能力が低下して日常生活に支障をきたす不利が生じてしまう。1980年にWHOが制定したICIDH(国際障害分類)というやつで、以前の障害の定義がそれ。その考え方は障害のマイナス面にしか着目していなかった。
 しかし、障害をもっと幅広い視野で捉える必要があり、2001年に改訂版のICF(国際生活機能分類)が採択された。
 この変遷について、ケアマネ試験の受験勉強や研修の時に何度も何度も繰り返して学んだ。事例を検討するグループワークも経験した。
 その時に抱いていた漠然としたイメージが漸く具体化されて、今その重要性を強く噛み締めている。
 河原さんの年齢、身体状況、そして現状の住環境を見るだけではダメ。河原さんを取り巻くあらゆるものが相互に作用するのだから、そこにアプローチすれば良いということだ。

 退院当日は今年初めて蝉の大合唱が耳に届く暑い日となった。
 ベッドに座り、エアコンにリモコンを向ける河原さん。涼しげな風が頬を撫でる。少し部屋の雰囲気は変わったけど、約一ヶ月振りに味わう自宅の雰囲気に河原さんは満足そうに笑った。
 私が生まれる随分と前からここで生活しているのだから、無事に帰って来れて胸を撫で下ろしたに違いない。
 帰宅してまず心配だったのは廊下の移動。今井さんと私が至近距離で見守りをしながら、アパートの入り口から居室までの杖歩行に問題はなかった。何より嬉しかったのは、廊下の複数箇所に手すりが付けられていたこと。

「かすみ荘のおとんが帰って来るんやから、ちゃんと準備しとかんとと思ってね」

 弥生さんの言葉に河原さんは照れ笑いを浮かべた。
 ベッド、杖、歩行器。それら全てが河原さんの生活動作を支える上で問題はなさそうだ。安全な屋内移動を確立させて、少しずつ行動範囲が広がっていけば良いと思う。

「河原さん、おかえりぃ!」

 遅れてやって来た藤村さんが握る手を河原さんが力強く握り返した。

「また、これから頼むわな」
「ごめん、私はもう来ないねん」

 藤村さんの冗談に握り拳を振りかざす河原さん。

「うそうそ、もちろん来るから」

 そんなやりとりの輪の中に、パッと大きな花が咲いた気がした。