連載小説『かすみ荘の住人たち』

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かすみ荘の住人たち 第九話~可能性とリスク ~

「最近、食欲はどうですか? よく食べてますか?」
「ご飯はよく食べてますよ、食欲旺盛」
「そうですか、良かったです! どんなの食べてるか、ちょっと冷蔵庫の中を見ていいですか?」
「もちろん、どうぞどうぞ」
 井川さんはいつも穏やかだ。怒るところを見たことない。認知症の症状によっては怒りやすい症状が目立つ人もいる。易怒性が高まる、というやつ。前頭側頭型認知症レビー小体型認知症に多く見られ、それは認知症の周辺症状として現れる。感情のコントロールができなくなったり、不安が強くなってイライラしやすくなるのが原因だ。井川さんにそんな症状は全く見られず、むしろ怒りの感情が存在しないんじゃないかと思うほど。
 井川さん宅では必ず冷蔵庫の中を確認する。期限切れの食品だけではなく、空になった弁当の容器や空き缶、時には飲み忘れた薬が入っていることだってある。
 「訪問したら冷蔵庫の中をチェックして下さいね」というのが前任者からの申し送りだった。
「これ、どうしたんですか?」
 私が冷蔵庫から取り出したのは、見るからに壊れたラジオだった。アンテナは折れ曲がり、コードは断線している。
「あれ、そんなん入ってましたか。おかしいなぁ、誰が入れたんやろ・・・・・・」
 決してとぼけているわけではなくて、井川さんのその不思議そうな表情の奥には不安が見え隠れしている。井川さんにとっては、知らぬ間にやって来た何者かが、勝手に冷蔵庫を開けて壊れたラジオを入れていったのだ。そんな不可思議なことが起これば、誰だって不安で仕方ない。
「とりあえず、出しておきますね。あ、東北では桜が満開みたいですよ、ほら」
 私はその不安が尾を引かないように、テレビの話題に注意を向けた。
「あぁ、綺麗ですねぇ。僕も花見に行かないと」
「またお誘いしますよ」
「ありがとうございます」
 こうして少しずつ、そして確実に進行する井川さんの認知症。弥生さんの言葉が頭の中に蘇る。私は今後の対応について考えてみたけど、何が最善の策なのかわからなかった。
 井川さんはコタロー君を抱き、テレビに映る満開の桜を眺めている。今の生活は、井川さんにとって満たされたものに違いない。もう少し、時間をかけてじっくりと考える必要がありそうだ。
 事務所に戻ると風間さんがパソコンと向き合い、腕組みしながら難しい顔をしていた。
「おかえり」
「お疲れ様です、何かあったんですか?」
「ちょっとね」
「ちょっと、ですか・・・・・・」
「米川さんよ、ほら、春日町の」
「ああ、あのお金持ちの」
「そう、お金持ちの米川さん」
「米川さんが、どうかしたんです?」
「ちょっと大変でね」
 風間さんは背もたれに身を委ねると、組んだ腕を解き天井に向けて大きく伸ばした。
 私が働く川北区は西区と隣接している。西区は昔から富裕層が多く住む地域で、その中でも特に春日町は高級住宅街として県内でも有名な場所だ。
 ここから自転車で僅か十五分。街の様子は見た目だけではなく、漂う空気感までが異なる。風間さんはそんな両極端な地域の利用者さんを担当している。
 ベテランの風間さんが対応に苦慮しているというのなら、それは間違いなく大変なことに違いない。
「息子さんが有料老人ホームを探してきたんやけど、米川さんは断固として拒否してね」
「そんなに状態が悪いんですか、米川さん」
 風間さんが黙って首を振った。
「一人暮らしが心配なだけよ、息子さんがね」
「なるほど。ありがちな話ですね、本人さんと家族さんとの意向の違い」
「気持ちはわかるんやけどね。先月、転倒したのが決め手かな」
「なるほどですねぇ」
 多くの人達が住み慣れた自宅で最期を迎えたいと願うけど、悲しいかな望み通りにならないことが多いのが現実。望みに反して、この国で圧倒的に多いのは病院で迎える最期だ。
 最近では昔みたいに息子夫婦や孫と一緒に暮らす三世代世帯は珍しくて、一人暮らしや高齢夫婦のみの世帯が多い。つまり、家族内で介護をする人がいなくなった。
 介護の役割を主に担っていたのは女性。だからと言って、家族がいたとしても今はそんな時代じゃない。女性の社会進出は当たり前の時代だ。
 医療の進歩は私達に長寿をもたらした。だけど、最期の時まで医療や介護の問題がつきまとうこの現実が本当に良いことなのだろうかと、介護の仕事に就いていながら時々考える。
 点滴や胃ろう、延命治療や住居のことなど。ピンピンコロリと逝かない限り、人生の晩年期まで様々な選択肢を迫られてしまう。
 米川さんの件もその一例だと思う。八十二歳になって迎えた春の日、息子さんから予期せぬ選択肢を突きつけられたのだから。
「風間さんは、どう対応するつもりですか?」
「私には決定権はないからねぇ。ただ、いろんな可能性やリスクを考慮しながら米川さんの意向を最優先にしたいかな。今のところ、特に引っ越しする理由はないと思う。だからって、家族さんの意見もしっかりと聞かないとね」
「可能性とリスクかぁ・・・・・・難しいですね。みんな、リスクばかりに目が行きがちですもんね」
 私は井川さんのことを思い浮かべていた。確かに今の井川さんには日常生活に潜むリスクはあるけど、住み慣れたかすみ荘で生活を続けるための可能性をもっと検討する必要がある。
「みんな、何かあったら施設って言うけど、そんな簡単なもんやないよね、引っ越しって。しかも八十過ぎてからってね」
「ですよね。私が一人暮らしする時は念入りに調べましたもん。地域の治安や周りに何があるか、日当たりや収納に騒音なんかも。嫌だったらまた引っ越せばいいって、そんな簡単なものじゃないですから」
「うん。環境が変わるって大変なことよ。心配してはるようで、結局は自分達の都合で入所を勧める家族も多いからね。それを否定するんやなくて、本人の意思を重視しながら正しい方向へ導くのもケアマネの重要な任務やからね」
「はい、わかりました!」
 私は井川さんのサービス開始時からのアセスメントと支援経過を読み直した。今となっては把握し辛い情報も含めて再確認しておきたかったのだ。