連載小説『かすみ荘の住人たち』

連載小説を書きます!

かすみ荘の住人たち 最終話~かすみ草~

 高く青い空に白い雲。少し黄色を帯びたイチョウの木々を揺らす優しい風。素晴らしい初秋の気候に恵まれた今日という日。心がソワソワとして、よく眠れなかったけれど眠気など感じないくらい、私の気持ちは高揚していた。
 そう、雄星がやって来る日。
 アズの二次会で、私のお願いを快諾してくれた雄星。彼の到着を心待ちにしているのは、私だけじゃなくてかすみ荘に住む人たち全員だった。

「こんな服着るの久しぶりや。大丈夫かいな?」

 ジャケットに袖を通した河原さんは妙に照れ臭そうだ。

「えらく賑やかですね。なんだか、楽しい気持ちになりますね」

 井川さんがアパート前の椅子に腰かけて笑った。

「いいじゃない! 素敵よ!」

 弥生さんがビシッとオールバックにきめた相澤さんに声をかける。

「弥生さんも、綺麗ですよ」

 バッチリと化粧をして、私が初めて見るスカートを履いた弥生さんに相澤さんがそう返した。

 他の住人さんたちも思い思いの衣装を身にまとって集まってきてくれた。みんな、いつもとは全く違う雰囲気。それは身なりだけじゃなく、その表情も。家族写真やクラスの集合写真を撮る時のような、緊張しながらもワクワクするような、あんな感じだった。

「はぁい、皆さん、いいですか! まず、かすみ荘の歴史に刻まれる集合写真を撮りたいと思います! その後にモデルさん一人一人の撮影をお願いしますね! 撮影してくれるのは、こちら。東京でプロカメラマンとして活躍している藤野雄星さんです」

「よろしくお願いします。今日は皆さんにモデルになっていただいて、写真を撮らせていただきたいと思います」

「男前に頼むで!」

「モデルが良いから大丈夫です!」

「おっ、うまいこと言うなぁ!」

 そんな冗談を言い合いながら、みんなの顔に大きな笑顔が浮かんだ。
 この日を心待ちにして、散髪に行った人もいれば、新しくシャツを購入した人もいた。「どっちがいいやろ?」なんて、薄っすらと姿の映る窓の前で服を選んだり、髭を整えたりして。

 雄星が言った。

「みんなの許可をもらえたら、撮影した写真で展覧会を開けたらどうかな? もちろん、モデルになってくれた人たちにも見に来てもらうんだ。これ、俺だぜなんて言えたら楽しそうじゃないかな?」

 みんな、大賛成だった。次の楽しみは展覧会に行くことだ。
 本当は雄星には遺影の相談をした。すると、雄星は笑って言った。

「遺影ってなると、ちょっと暗くなりそうじゃない? とにかく、撮影を楽しんでもらおうよ。俺も楽しそうだしさ」

 雄星が前向きなところは、昔から変わらなかった。

 

「じゃあ、いきますよ! こっち見てにっこりと笑って下さいねぇ! はい、チーーーーーズ!」

 

 私たちの生活の中には、先に待つ楽しみがなければ張りがない。年齢や身体状況を問わず必要なことだと思う。そして、それはやがて生きがいにさえなり得るのだと私は思う。

 弥生さんが抱えているかすみ草の花束が、太陽の光を受けて輝いていた。

かすみ荘の住人たち 第二十九話~帰省、再会~

 車窓に富士山が姿を見せた。青い空に向かって聳えるその姿はとても勇壮だ。
 転職してから初めての帰省になる。とは言っても本当の目的は幼馴染みの結婚式に出席することで、ついでと表現するのは申し訳ないのだけれど、ホテル代わりとして実家に宿泊させてもらう。
 車窓に流れる景色を見ていると、最近の日常がまるで現実の世界とは違うところで起こっているかのような錯覚を覚える。まさか、自分が今の地域でケアマネジャーをしているなんて学生の頃の私には想像すらできなかった。人生って、どうなるかわからない。みんな同じ。一つ一つの小さな積み重ねが実は大きなターニングポイントだったりする。

「懐かしいな」

 僅か数ヶ月の時間が、まるで数年間の出来事と錯覚するような懐かしさを感じて思わず言葉が漏れた。当たり前だけど、駅舎の前から眺める景色は何も変わっていない。
 小さなロータリーに停まる一台の白い軽自動車。右側の後ろに付いた黒い傷が目印で、それは私が免許取りたての頃に自宅のガレージで擦ったもの。

「母さん! 久しぶり!」
「少し痩せたんじゃないの?」
「そう? ストレスかな」
「あまり無理しないようにね」
「うん、大丈夫よ。楽しくやってるから」

 ロータリーを出て五分も走れば周囲に田園風景が広がる。この町の産業は主に一次産業。八割が農業で残りは牧畜業だ。とにかく自然豊かで長閑で良い所だけど、表現を変えれば見渡す限り自然しかない。駅前ですら人の姿はまばらな町で過ごした私が、ちょっとでも気を緩めれば人にぶつかってしまうような都会で働いているのだから本当に不思議な気分だ。

「式場までは誰か迎えに来てくれるの?」
「うん、アズがね」

 アズとはアズサのことで中学時代の親友の一人。アズと沙也加と私。私達はいつも三人で行動していた。学校だけじゃなく、受験勉強する時も東京へ買い物に行く時も。いつも一緒だった。
 その沙也加が結婚する。
 私はまるで母親のような気分になっていた。心から嬉しいけれど、寂しさや心配といった感情が同時に込み上げてくる。ちゃんと、幸せになれるだろうかなんて余計なお世話だろうけれど。
 本当は、そんな心配は一切無用なのだ。沙也加の結婚相手というのも中学校の同級生で、つまり長年よく知っている男性だから。数年ぶりの再会をきっかけに付き合いはじめ、五年間の交際を経て結婚に至ったそうだ。名前は涼真。勉強もスポーツもできて、背が高くてカッコよくて、まさに非の打ち所がなかった彼は中学校の時から女子の憧れだった。しかし、私は違った。涼真の親友で、いつも彼と一緒にいた雄星に想いを寄せていたのだ。雄星は決して男前ってわけじゃなかったけれど、明るくて優しくていつも前向きで、話をしていると心が安らいだ。
 雄星と最後に会ったのは高校三年の時。最寄り駅のホームで彼女と仲良く歩いていた彼とすれ違った。「よっ、久しぶり」って声をかけられて、私は「う、うん」と返しただけ。振り返った時に見た二人の後ろ姿に少し嫉妬したことを覚えている。
 そんな雄星も結婚式に来るそうだ。だから、私はいつも短くカットしていた髪を伸ばして大人の雰囲気を醸し出そうと考えていたのだ。

「おーい!」

 車の窓から手を振るアズに駆け寄ると、私は彼女の両手を力強く握りしめた。

「久しぶり! 元気?」
「うんうん、元気よ。飛鳥は? なんだか大人っぽくなっちゃって!」

 私はネイビーのドレスに編み込みヘアと、普段の私を知る人からは想像できないようなスタイルで臨んだ。

「もしかして、雄星が惚れるかもよ」
「ちょっと、アズ、何言ってんのよ!」
「期待してるくせにぃ!」
「そんなわけないし!」

 私たちは、車の中であの頃と変わらないような会話をしてはしゃいでいた。故郷に帰り、懐かしい友に会えば肩の力を抜いて自然に振舞うことができた。本当に心地良い。

 雄星が新郎側の友人席に座っていることには、すぐに気が付いた。時を越えてやって来たのかと思うくらい、あの頃と変わらない彼の姿がそこにあった。目じりにしわを浮かべて笑う顔は、きっと見た目だけじゃなくて中身も変わっていないはずだ。私にはそれが嬉しかった。

 式と披露宴は無事に終わった。自分でもびっくりするくらいに途中から涙が止まらなかった。「泣きすぎだって!」って沙也加に笑われたけれど、私が沙也加に抱きついて泣くものだから、彼女も堪えきれずに泣き出して、そこに加わったアズも一緒に三人でわんわんと泣いた。

「雄星、良かったら隣に飛鳥が座ってもいい?」
「ちょっ、アズ!」

 二次会で半ば強引にアズが私の手を引いて雄星に声をかけた。

「ああ、もちろん! 久しぶりじゃん!」
「あ、うん、ホントに久しぶりね!」

 照れ臭かった。久しぶりに同年代の男性と喋った気がする。しかも、それが初恋の相手となれば尚更だ。しかし、雄星は相変わらず自然体で、まるで数日振りに会うかのような感覚で話しかけてくれる。そもそも、私に対して緊張する理由なんて、ないか。
 そんな雄星と話をする時間はとても心地良かった。お世辞だとしても「大人っぽくなったな」なんて言われて、髪を伸ばした甲斐があったというものだ。そして、私の仕事について興味を持って耳を傾けたくれた。本当は二次会を楽しみたいはずなのに、もっと他の人と話がしたいはずなのに、それでも私と会話している時の表情は真剣そのものだった。

「今度、そっち方面に仕事で行くことがあるから、見学させてもらっていいか?」
「もちろん! 是非!」

 まさかの言葉に私の胸は音が漏れそうなくらいに高鳴った。しかし、私のにやけた顔とは違い、雄星はカクテルを一口飲むと、腕組みして険しい顔をした。

「どうかした?」
「いや、考えさせられるな、と思ってさ。きっと、これからの日本社会で単身高齢者はもっと増えていくだろ? 俺にも何かできることがないかなって」

 私はテーブルの上に置かれた雄星の立派なカメラを見つめた。

「ねぇ、もし、良かったらだけど・・・・・・相談したいことがある」

かすみ荘の住人たち 第二十八話~ICF~

 

「どこだってリスクはありますよ。病院だって施設だってこける時はこけます。ご本人を目の前にして失礼かもしれませんが、これまで長く生きてこられた。これからの人生、心穏やかに過ごせる場所で過ごすことが最善じゃないですかね」
「ありがとうございます!」
「もちろん、今の状態と住環境をチェックさせてもらっての意見ですから。図面、見せてもらいましたよ。わかりやすかった、ありがとう」

 右斜め前に座る柿原さんが、してやったりと言わんばかりの表情を見せた。隣の師長は面白くなさそう。

「まぁ、とにかく転倒しないに越したことはない。気を付けて下さいね」

 退室間際、山中先生はそう言葉をかけて河原さんの肩にポンと手を置いた。

「まぁ、先生がああやって仰ってるから大丈夫でしょう。皆さん忙しいでしょうから、あとは早く退院の日程を調整してカンファレンスを終わりにしましょう」

 半ば強引に締められようとする退院前カンファレンス。私にはこれ以上の意見交換は不要だった。主治医から意見を聞くことができただけで十分だし、それ以外のことは柿原さんに最終確認すればいい。

「週明け、月曜日の退院でよろしいでしょうか? 午前中にお迎えに来ます」
「わかりました、それでお願いします」

 吐き捨てるような師長の一言。
 きっと、この師長は河原さんや私のことが嫌いで意地悪な態度をとっているわけじゃない。自己顕示欲が強くて、自分が輪の中心にいたいだけなんだろう。
 私はカンファレンス終了後、あえて師長に声をかけた。

「この度はいろいろとありがとうございました。経験の浅い私にはとても考えることが多くて勉強になりました。また、よろしくお願いします」
「いえいえ、また利用者さんが入院されるような時はよろしくね」

 別に私が悪いことをしたつもりはない。だけど、どちらかが歩み寄らなければ距離は縮まらない。私は気持ち穏やかに、少し大人になって精一杯の笑顔で振る舞った。

「介助バーの方がいいかもですね」

 病室に戻った河原さんの動作を確認して今井さんが言った。

「あと、手すりもあった方がいいかな、入口の所に。トイレまでは念のために四点杖があると安心かもですね」

 先日、ベッドを搬入した際に河原さんの居室の状況は今井さんの頭の中にインプット済みだ。立位時にかかる荷重と歩行時に膝折れのリスクを懸念した今井さんからのアドバイス

「よくわからんから任せるわ」

 河原さんの言葉は投げやりなものではなく、今井さんを信用して出たものだった。
 病気や障害によって身体機能が悪化することで、能力が低下して日常生活に支障をきたす不利が生じてしまう。1980年にWHOが制定したICIDH(国際障害分類)というやつで、以前の障害の定義がそれ。その考え方は障害のマイナス面にしか着目していなかった。
 しかし、障害をもっと幅広い視野で捉える必要があり、2001年に改訂版のICF(国際生活機能分類)が採択された。
 この変遷について、ケアマネ試験の受験勉強や研修の時に何度も何度も繰り返して学んだ。事例を検討するグループワークも経験した。
 その時に抱いていた漠然としたイメージが漸く具体化されて、今その重要性を強く噛み締めている。
 河原さんの年齢、身体状況、そして現状の住環境を見るだけではダメ。河原さんを取り巻くあらゆるものが相互に作用するのだから、そこにアプローチすれば良いということだ。

 退院当日は今年初めて蝉の大合唱が耳に届く暑い日となった。
 ベッドに座り、エアコンにリモコンを向ける河原さん。涼しげな風が頬を撫でる。少し部屋の雰囲気は変わったけど、約一ヶ月振りに味わう自宅の雰囲気に河原さんは満足そうに笑った。
 私が生まれる随分と前からここで生活しているのだから、無事に帰って来れて胸を撫で下ろしたに違いない。
 帰宅してまず心配だったのは廊下の移動。今井さんと私が至近距離で見守りをしながら、アパートの入り口から居室までの杖歩行に問題はなかった。何より嬉しかったのは、廊下の複数箇所に手すりが付けられていたこと。

「かすみ荘のおとんが帰って来るんやから、ちゃんと準備しとかんとと思ってね」

 弥生さんの言葉に河原さんは照れ笑いを浮かべた。
 ベッド、杖、歩行器。それら全てが河原さんの生活動作を支える上で問題はなさそうだ。安全な屋内移動を確立させて、少しずつ行動範囲が広がっていけば良いと思う。

「河原さん、おかえりぃ!」

 遅れてやって来た藤村さんが握る手を河原さんが力強く握り返した。

「また、これから頼むわな」
「ごめん、私はもう来ないねん」

 藤村さんの冗談に握り拳を振りかざす河原さん。

「うそうそ、もちろん来るから」

 そんなやりとりの輪の中に、パッと大きな花が咲いた気がした。

かすみ荘の住人たち 第二十七話~退院前カンファレンス~

 ベッドからの起き上がりは、以前よりスムーズになった。リハビリ室までは、歩行器を使用して移動できるまでに回復しているようだ。

「転位が小さくて良かったです。近いうちに退院前カンファレンスをして、いよいよ帰れるんじゃないですかね」
「心配だったけど、安心しました」

 私は河原さんの横顔に目を向けた。次に足を運ぶ場所を確認しながら歩みを進めるその顔は、とても真剣な表情だった。
 リハビリ室では、かすみ荘の図面を参考にした障害をクリアするための動作確認が行われた。入り口とトイレの段差昇降、ズボンの上げ下ろし、ベッドからの立ち上がり、手すりのない廊下での歩行。退院後の生活を再現したシュミレーションでは、見守りだけでその一つ一つをゆっくり確実にクリアする河原さんだった。設置を検討していたポータブルトイレの必要はなさそうだ。

「歩いて行くから部屋にトイレなんかいらん」

 念のために確認した河原さんの返事には説得力があった。これで誰も河原さんが自宅へ帰ることを否定できないはず。
 私はエアコンの設置とベッドの搬入について、弥生さん立ち会いの上で退院前に済ませておくことを再確認してから退室した。そして、私はそのままナースステーションに足を運んだ。

「すみません、師長さんいらっしゃいますか?」

 ちょうど私の目の前を通過した作業中の若い看護師は、私の声に足を止めて「少しお待ち下さいね」と気持ち良く笑顔で応対してくれた。周囲を見回すと師長の姿はなく、ナースステーションから病室の方まで探しに行ってくれるようだ。

「用件とどこの誰か聞いといてよ」
「すみません・・・・・・」

そんなやりとりをする声が少しずつ近付いてくる。師長とさっきの看護師だ。私が悪い訳じゃないのに、大きな罪悪感が私を襲う。

「すみません、お待たせしました」

 嫌味を言われたことを微塵も感じさせない笑顔に胸が痛い。

「お忙しいところ、ありがとうございました。助かりました」

 私は笑顔と頭を深々と下げることで彼女に大きな感謝を示した。

「はい、なんでしょうか」

 抑揚のない低いトーンの声には、相変わらず愛想のかけらもない。

「すみません、河原さんの退院について。よろしければ退院前カンファの調整をお願いしたいのですが」
「いや、まだ主治医から退院許可出てませんけど」
「では、主治医にご確認していただけますか?」

 河原さんの状態を見て自信と確信を得た私は、彼女に負けることなく強気だった。

「本当に自宅で大丈夫? 帰ってすぐに転倒しても病院は責任持てないけど」
「河原さんの住環境はご存知でしょうか?」
「見たことないけど、古いアパートなんでしょ? トイレは共同やし段差もあるって聞いてるけど」
「私はその全てを把握して、現状をアセスメントした上で自宅での生活は可能だと考えてますが」

 全く怯まない私の態度に、師長の眉がピクピクと動いたのがわかった。

「主治医に伝えときます!」

 まさに、言い放つようにしてナースステーションへと入って行った。
 一体、彼女は誰のことを一番に考えて仕事をしているのだろう。ただ、自分の考えや意見に対して異論を唱える相手にマウントを取りたいだけじゃないんだろうか。患者さんの気持ちなんて、そっちのけ。なんだか、悲しい人だ。
 退院前カンファレンスの日程調整の連絡は翌日にあった。

「主治医に確認したら退院許可が出たので、カンファの日程調整したいんですが」

 電話の向こう、師長の表情を想像するのは容易かった。きっと、腑に落ちていないけれど、主治医が許可すれば従うしかないのだろう。
 そんなことは気にもせず、私は淡々と可能な日程を伝えて電話を終えた。

 カンファレンスには藤村さん、今井さんと私の三人で出席した。病院側は主治医と看護師長、そして柿原さん。長方形に配置された長机。その長辺に対面して座る私達。そして、合計六名に囲まれるようにして奥側の椅子に一人腰掛ける河原さんの表情には、緊張感が漲っている。まるで、河原さんにこれから告げられる最後の審判を待つかのようだ。

「はい。では、これから河原篤さんの退院前カンファレンスを始めたいと思います。進行は看護師の源がさせていただきます」

 師長の苗字を初めて聞いた。抱いていた印象と随分かけ離れた清楚な響きじゃないか。
 そして、一人一人の自己紹介へと続く。藤村さんと今井さんの時には目を合わせて「お願いします」と会釈していたくせに、私の時は俯いたまま「お願いしま・・・・・・」って語尾が掠れるように消えて。最後まで本当に感じが悪い。

「では、主治医の山中先生より現在の状態と経過をご説明していただきます。先生、お願い致します」

 額から頭頂部にかけて綺麗に薄くなった頭髪、もみあげから繋がった顎髭と口髭という風貌は、いかにもドクターという雰囲気が漂っている。

「えー、河原さんは六月十四日に自宅アパートにおける転倒、左大腿骨頚部骨折により当院へご入院されました。骨折部位は大きくずれることなく、手術は無事に成功しております。リハビリの経過も順調なようで、この度、退院の運びとなります」

 早口で一通りの説明を終えると、山中先生が師長に目配せをする。

「先生はこれからオペがありますので、ここで。ご質問等、大丈夫でしょうか?」

 「すみません、一つだけ」と挙手をした私に対して、聞いておいたくせに師長は面倒臭そうに「はい、どうぞ」だって。

「先生、率直にお聞きします。河原さんが長年過ごしてきたかすみ荘は、段差があったり手すりがなかったりする古い建物です。今の状態でそこへ帰って生活をすることは間違ってますか?」

 山中先生は上げた腰を再び座面に下ろした。

かすみ荘の住人たち 第二十六話~訪れる夏~

「そうなん、良かった!」

 河原さんのことを報告すると、弥生さんが喜んでくれた。

「その際はベッドや手すりを搬入させていただくので、少しバタバタするかもです」
「それは大丈夫よ。ここは古いから、高齢者には住みにくくなってきたからね」

 弥生さんが廊下の方に目をやった。お世辞にも「そんなことないですよ」とは言えない建物は、よく磨かれた木の廊下こそ輝いているけれど、段差以外の建具一つ一つさえ、高齢者には使い辛いようなものが至るところに溢れている。

「うまく言えませんが、ここには他にはない温もりがあると思います」
「温もりねぇ・・・・・・ずっとここにいる私にはわからないけど、ワンルームマンションとは違って良くも悪くも一人一人の生活が感じられる気がするわね」

 私は下駄箱に目を向けた。そこにはサンダルやスニーカー、そして革靴が並んでいる。誰が外出中で誰が家にいるのか、プライバシーなんてものはなく一目瞭然だけれど、それによってごく自然な日々の安否確認が行われていることになる。
 もしかすると、どんなにセキュリティのしっかりしたオートロックのマンションよりも、ずっと安心感があるのかもしれない。
 物理的バリアに囲まれた木造建築の狭いアパート。風呂なし共同トイレという条件も重なれば、文字で表される物件の情報だけでは誰もがあらゆるリスクしか想像しないだろう。
 しかし、ここで感じる空気はそれをも超越する何かが存在するのは間違いない。

 これから本格的な夏が近づいてくると、全国各地で熱中症にかかる人が多くなる。もちろん、私がこの地域で迎える夏は今年が初めてだけれど、そのリスクについては十分に聞かされていた。

「特に夏と冬が要注意なんよ。ここら辺ではエアコンがない家がめちゃくちゃ多いから。びっくりでしょ?」

 入社して間もない頃、とても冷え込む日の同行訪問の時に風間さんが言った。その言葉を前置きとして訪問したのが、暖房機器のない大内さんという方の家だった。
 大内さんは室内にも関わらず厚手のジャンパーを着たまま、随分と使いこまれてぺちゃんこになった掛け布団に包まっていた。風が吹くとガタガタと震える窓ガラスの隙間から凍てついた風が入り込んでくる。換気をせずに吸う煙草が部屋中を白い煙とヤニの匂いで満たしていた。

「いい加減、暖房器具を買ったらどうです?」

 風間さんの提案に、大内さんは布団に臥床したままオーバーに右手を振り「いらんいらん!」と耳を傾けようとはしなかった。

「ギャンブル、お酒、煙草。そのお金が惜しいのよ」

 手袋をはめながら風間さんが言った。室内よりも、むしろジャケットを羽織った外の方が暖かく感じられる程だった。

「寒さで体調を崩してしまえば楽しみすらなくなっちゃうのに」
「物事の大切な順序が考えられんのよね。そやから、いつも月途中でお金がなくなってしまうんよ」
「何度繰り返してもわからないんですかね」
「アカンなぁ、って、きっと頭では理解してはるんよ。ただ、それよりも欲が勝ってしまうんやろうね」
「どうしたら変わるんでしょう」
 「それには二つしかない」と、風間さんが右手を私に示した。恐らく人差し指と中指で『二』を表したかったそれは、残念ながら二股の手袋では、ただ手を挙げただけにしか見えなかった。

「風間さん、手袋・・・・・・」
「あ、ごめん」

 手袋を外した風間さんは、今度こそ間違いなくしっかりと伸びた人差し指と中指を私に向けた。

「一つ目。それは自分で更生しようという意思があること」
「それ、なかなかハードルが高いですね」
「そう。結局、抗酒薬を服用するのも断酒会や禁煙外来に通うのだって、その気持ちがなければ意味がないからね。実行するのは他の誰でもない自分自身なんやから」
「ごもっともです」
「そして二つ目。自分の健康状態が悪くなって初めて気付く。つまり、大病を患った時よ。そこで初めて後悔するパターン。残念ながら、この辺りではそれが圧倒的に多い」
「なるほどですね」

 私は風間さんとのそんなやりとりを思い出していた。
 そして、嫌な記憶が脳裏を過ぎる。

「河原さんの家って・・・・・・」

 私の記憶が正しければ、河原さん宅にはクーラーがなかったはず。暑い季節に訪問したことがないから定かではないけれど、私が思い浮かべる居室の映像にクーラーらしきものは存在しない。
 河原さんはお酒も煙草もギャンブルもしなかったはず。安いスーパーで食材を買い、自炊しながら本当に慎ましい暮らしを送っていた。決してお金に困ってエアコンを設置できないなんてことはないはずだ。
それなのに、なぜだろう。私の中でそんな疑問が湧き起こるのだった。

 今年の夏は特に暑くなりそうです。熱中症にはくれぐれもご注意下さいー

 気象予報士の伝える長期予報に耳を傾けながら、私の思考チャンネルは河原さんのことに切り替わる。

「大丈夫かな」

 思わず口にした声が、私の耳を通じて私に問いかけた。

「大丈夫、なわけないよな」

 誰もいない部屋。自問自答して出た答えが私を不安にさせる。
 ここ数年の夏の暑さは、若い世代の人さえ生命を脅かされるくらい尋常なものじゃない。それが退院して間もない八十代半ばの人ならば、それこそ命に関わるリスク以外の何者でもない。
 明日は病院へ面会に行く日だ。退院の前にエアコンの設置を提案してみようと思う。

「そんな金、ないわ」
「えっ! 何に使ってるんですか?」

 まさかの返答にそんな言葉が口をついて出た。

「いや、別にこれってのはないんやけどなぁ」

 その表情と口調は何かを隠しているに違いなかった。河原さんには意外と内に秘めたことがいくつかあるような気がする。あまり過去を語ることがなければ、今回のお金のことだってそうだ。
 しかし、今はその使途を明らかにするよりもエアコンを設置する方法を考えることが大切だ。

「もし、弥生さんがエアコンを付けてくれるって言ってくれたら、付けてもいいですか?」
「お金は?」
「月々、分割払いなら?」
「それなら、なんとかなるかな」

 河原さんは渋々ながらも首を縦に振った。お金の話をするのは良い気分じゃない。

「お疲れ様でーす」

 妙に気まずい雰囲気を打ち破ったのは柿原さんの声だった。

「どうですか、リハビリの状況は?」

 反り返るように立てた右手の親指を私に向ける柿原さん。

「バッチリですよ! 図面に描いてあるバリアはほぼクリアできるんじゃないですかね」
「河原さん、すごいじゃないですか!」
「このリハビリのにいちゃん厳しいからな」
 「そりゃ、厳しくもなりますよ。ケアマネさんの頑張りに応えないといけませんから。ねっ」と、笑顔で私を見る柿原さんに思わずドキッとしてしまう私。

「さぁ、リハビリ行きましょう。私も一緒に行きますから」

 私は慌てて話題を変えた。

かすみ荘の住人たち 第二十五話~リハビリテーション~

「こんにちは、河原さん。リハビリに来ましたぁ」

 カーテンの隙間から顔を覗かせたのはリハビリにやって来た理学療法士だった。私より少し年上と思われるその男性は、その僅か一言発した声のトーンと表情だけでも、人柄の良さが滲み出ている優男だ。
 私は顔を見た瞬間に心臓が強く打つのを感じた。そう、実は私のタイプ。久しく感じていなかったこの感覚。

「あっ、面会中ですね」
「いえ、大丈夫ですよ、どうぞお願いします」

 少し意識して声のトーンを上げた私は、久しぶりに自分の中の『女子』が出た気がして妙に照れ臭かった。

「娘さんですか?」
 「いえ、ケアマネです」と咄嗟に返しながらも、すぐにその発言が私にとって非常に失礼なものだと気が付いた。
 ウェーブのかかったミディアムヘアの似合う爽やかな雰囲気を醸し出しながら、その口から発せられた言葉に火花が出るような衝撃が走る。

「すみません、申し訳ないです。そうですよね、せめてお孫さんですよね」

 ただの天然のようだけど、私は怒りよりも心に深い傷を負った。

「大丈夫ですよ、パッと見ただけじゃね、わからないですよね」
「失礼しました。なんか、雰囲気似てる気がして。あっ、リハビリの柿原です」

 何のフォローにもならず、むしろ傷を抉るような発言をかぶせてくるのが本当に天然なら良いけど、まさか、自分が思っているよりも老けているなんてことはないはず・・・・・・そう思いたい。

「よかったら、リハビリ見ます?」
「お願いします」

 私は少し憮然とした態度で返事をした。
 ワンフロア下にあるリハビリ室へ移動するため、ベッドサイドに車いすがセットされる。足を滑らすようにしてベッドから下ろし、体の向きを変えて端座位になるのに介助の必要はないようだ。
 次の問題は移乗動作。利き足を骨折した河原さんは、自分自身でもどう体を動かせば良いのか戸惑っているようで、右側のアームレストに右手を置いたまま前傾姿勢で固まってしまった。

「大丈夫ですか?」
 「ああ、なんとか。よっ」と、右手に力を入れて腰を上げた河原さんは、その重心を右足にかけてしまい「いたっ」と、バランスを崩してしまった。
柿原さんが咄嗟に手を差し伸べて河原さんの体幹を支える。

「今日も関節を動かすトレーニングと立ち上がりの練習をしますね」

 黙ったまま頷いた河原さんの表情は曇っていた。
 車いすに座り、リハビリ室へ向かう河原さんの表情は暗いまま。私はその表情をちらちらと窺いながら、何も声を掛けられないでいた。
 本当なら予後や入院期間、そして在宅復帰の可能性を確認したいところだった。しかし、もしその答えが悲観的なものだったら・・・・・・この柿原さんという理学療法士は、本人への配慮もなくズケズケとありのままを口にすることだろう。私にはその心配があった。

「なるべく、早く自宅へ戻れるように頑張りますから」

 エレベーターのドアが閉まるのと同時に、柿原さんが言った。

「大丈夫ですよね? 自宅に帰るの?」
「河原さんに聞いたら、帰りたいって仰ってましたから。ねっ、河原さん、そうですよね?」

 河原さんが遠慮気味に頷く。

「そりゃ、長く住み慣れた自宅に帰れるのが一番ですよ。残り僅かな人生、急な環境の変化は良くないと僕は思います」

 僅かな人生って・・・・・・良いことを言うけれど、やっぱり一言多い人だ。だけど、思ったことを何でも口にする柿原さんの言葉には、一切の偽りはないに違いない。素直な人だと思うようにしよう。
 室内の全てを見渡せる広いリハビリ室には、数名の入院患者がリハビリに励んでいた。

「僕達はこっちです」

 柿原さんは、窓際に並ぶピンク色のリハビリベッドの脇に車いすを停めた。
 「さっ、ベッドに移りますね」と、柿原さんが河原さんの前に屈み、目線を合わせて腋下辺りに軽く手を添えた。そして、「立ち上がりますね」の合図に河原さんは前傾姿勢になり、「せーの」のかけ声でゆっくりと立ち上がった。

「はい、じゃあ、ゆっくりと少し前に出て、こっちのベッドに座りますね」

 少し右足を庇う様子は見られるけれど、何か支えとなる物があれば一人でも移乗動作は行えるように感じられた。

「はい、オッケーです」

 ベッドに端座位になった河原さんは「ふぅーっ」と、大きく息を吐き出した。

「大丈夫そうじゃないですか、河原さん!」

 河原さんは照れ臭そうにして笑みを浮かべた。

「僕、ここの前は訪問リハしてたんです。入院して家に帰りたいのに、本人の望まない施設に行った人を多く見てきたんですよね」

 ベッドで横になる河原さんの股関節をゆっくりと曲げ伸ばししながら柿原さんが言った。

「リハビリ頑張って、絶対に家に帰りましょう。ね、河原さん」
「ああ」
「今の所はトイレが共同だしお風呂がないし。段差だっていっぱいありますが、そんな感じでも本当に大丈夫ですか?」
「見てみないから、絶対に大丈夫とは言えませんねぇ。超能力でもあれば別ですけど」

 私の矢継ぎ早な質問に対し、柿原さんの返答は至極当たり前のことだった。

「けど、ある程度リハビリの状況が安定してきたら河原さんと一緒に見に行きますよ。もちろん、住居の状況は口頭でいいから後で教えて下さい。説明できますか?」
「もちろんです!」

 意図的じゃないことは理解しながらも、いや、そうじゃないからこそ、バカにされている感じがして仕方なかった。それも、柿原さんの良いところに違いない。そう思っておこう。

「何十年も住んでるわしより詳しいなぁ」
「住環境をこんなに詳しく説明してくれたケアマネさんはいないですよ」

 素人ながら私が描いた図面に二人が感心してくれた。

「これをクリアできるようにリハビリを進めていきますよ」

 私は少し安心した。自分一人だけが河原さんの退院を前向きに進めているのではなく、共通の意識を持った人がいることがとても心強い。
 私は一週間後の再訪問を約束して、河原さんに暫しの別れを告げた。

「頑張ってみるわな」

 別れ際、河原さんが見せた笑顔には、前を向いて進む気持ちが感じられた。

かすみ荘の住人たち 第二十四話~意思確認~

 冨山第二病院へ河原さんの二回目の面会に行くのは入院から二週間が経つ頃だった。ナースステーション前のカウンターで面会用紙を記入しつつ、私は例の看護師がいるかどうか中に向けて細かく視線を向けた。
 当たり前のことだけど、全員が同じ白衣姿で区別がつきにくい。それでも私が確認した限り、どうやら彼女の姿はないようだ。その事実を確認すると情けなくもほっと胸を撫で下ろす私だった。

「河原さんの面会?」

 私は背後からの声に手にしたボールペンを思わず床に落としてしまった。聞き覚えのあるその少し嗄れた声は、私の緊張感を一気に高める。

「あ、はい、手術が終わって、その後の状態がどうかなって」

 平静を装いながらも私は随分と早口だった。

「できたら、来る前に連絡してね。いきなり病状説明を求められても、こっちも段取りがあるから」
「すみません・・・・・・」

 言葉とは裏腹に、私の心は怒りの感情で満たされていた。
 私は1.5の視力を駆使して、彼女の名札に神経を集中した。そこには予想した通り看護師長という肩書が記されていた。
 「さぁ、どうぞ」と、師長はお願いしてもいないのに私を先導する。
 そこは先日、面会に来た時とは違う病室だった。四人部屋の窓側が河原さんのベッド。廊下側二台のベッドはいずれもプライバシーのかけらなどなくカーテンが全開だった。一人の男性は虚な目を私に向け、もう一人は鼻に酸素のカニューラを付けて随分と深い眠りについていた。私の「こんにちは」に返す声は誰からもなかった。
 この病室にいる患者の特性を把握しているからだろう、師長はノックの代わりに、入室するなり「河原さん、面会やで」と声を発し、返事を待つより早くカーテンを開けた。

「わぁっ、飛鳥さん」

 ギャッジアップしたベッドに横たわり、テレビを観ていた河原さんが驚くのも無理はない。

「こんにちは、突然すみません。驚かせちゃいましたね」

 なんで私が謝る必要があるのかと思いながら、私は小さく頭を下げた。

「いゃぁ、来てくれたんやぁ、嬉しいなぁ」
 
 それは、まるで母親の迎えを待ち望んでいた園児のような表情で、私はなんとも申し訳ない気持ちに苛まれた。

「どう、調子は? リハビリ終わった?」

 師長の配慮のない言葉は感動の再会をぶち壊す程の破壊力。ここまで無神経な人がよくも師長を務められているものだと思った直後に、いや、この図太い神経があってこそ務められるのかもしれないと思い改めた。

「なかなか、思うようにはいかんわ、痛みがあるし」
「まぁ、無理せんとね。そうそう、昨日のこれ、よく見て考えてよ」

 それだけ言い残すと師長は病室を後にした。彼女が「昨日のこれ」と右手の人差し指で示したものは『有料老人ホーム桜の家』のパンフレットだった。

「どうしたんですか、これ」

「さっきの看護師さんが持ってきたんよ。退院して一人暮らしは危ないからって」

 私はパンフレットを手に取った。僅かA4二枚に詰め込められた情報は、もし私が引越しを考えるにも十分な情報ではない。

「そんなん渡されても、全然わからんわなぁ」

 ずっと、かすみ荘に暮らしてきた河原さんにとってはより一層のことに違いない。施設の基礎知識がなければ、このパンフレット一冊だけで新たな暮らしをイメージすることは難しい。

「帰って迷惑かけるのは本望やないけど、何十年も住み慣れたとこから行ったことない場所へ移るのは・・・・・・それこそ本望やないわな」
「もう一度、手術が終わった今の状態で確認させて下さい。河原さんは、かすみ荘に帰りたいですか?」
「そりゃ、この前に話した時と気持ちは変わらんよ。もちろん、帰れるもんなら帰りたい。わしには、あそこしかないと思ってる」
「そうですよね、良かったです」
「あそこでは、先代の時からお世話になってるんや。弥生さんのお父さんの頃から」
「河原さんは、確か日雇いの仕事をされてたんですよね。どういう経緯でかすみ荘へ?」
「良かったら、ここ、どうぞ」
「ありがとうございます」

 私はベッド脇の丸椅子に腰を下ろした。

「田舎から出てきたわしは、金も頼れる人もなかったんや。この身一つだけや。そんなわしを救ってくれたんが先代やった。突然訪ねてきた何処の馬の骨かもわからんわしに住む場所を与えてくれた」
「命の恩人ですね」

 八十五歳の河原さんが約四十年前に田舎から出て来たということは、四十五歳の頃の話。その年齢で故郷を出てきたというのは、よっぽどの理由がない限りあり得ないことだ。

「河原さんは、今でも故郷の誰かと連絡を取られてますか? その、もしもの時に連絡できるような人とか。あの、変な意味じゃなくて皆さんにお聞きしてることですが、前任者からの引き継ぎでもその話を聞いてなくて」
「そうゆう話は確かにこの辺りの人間には、なかなか聞きにくい話かもしれんな」
「はい、いろんな背景を抱えた方が多いですから・・・・・・」
「わしは兄貴と弟の三人兄弟。わしが真ん中やけど、二人とも生きてるかどうかはわからん」
「お二人とも故郷にいらっしゃるんですか?」
「恐らくな」
「そうですか」
「そんなもんよ。連絡先以前の問題、向こうの安否すらわからんのやから」

 河原さんは窓の外を見つめた。

「梅雨が明けたって? 今年は随分と長かったな」

 病室からの眺望は素晴らしかった。眼下に広がる街並みは神ノ崎地域、その向こうには天門区の高層ビルが林立している。
 神ノ崎地域の人達が救急搬送されるのは、この冨山第二病院が大半だ。
 お酒の飲み過ぎで転倒して運ばれるのもここだし、喧嘩して怪我の治療をしてくれるのもここ。どんな患者も受け入れる間口の広さは、お金儲けしか考えていないという悪評が先行するけれど、ある意味でどんな状況の人達にも救いの手を差し伸べてくれている。
 だから、この地域でここを必要としている人は多い。